近頃ボタニカルシャンプーなどの"ボタニカル"というフレーズをよく耳にすることが多く
また自然由来を売りにしている化粧品のパッケージでよく使われているお洒落なイラストは
"ボタニカルアート"と呼ばれています。
ということで今回はボタニカルアートを描き続けた女性マチルダを追っていきながら
ボタニカルアートについても考察していきましょう。
マチルダ・スミスについて
マチルダはインドのボンベイで生まれ幼少期に家族一緒にイギリスへ移り住みました。
いとこのフッカーは植物学者でありマチルダは彼の影響を受けて植物学や植物画への関心が高まりました。
その後、植物画家を育成するためにマチルダは植物園に採用されます。
1787年にウィリアム・カーティスがカーティス・ボタニカル・マガジンという植物画雑誌を創刊しました。
それまで図版を描いていたウォルター・フィッチと報酬について対立し
1877年にフィッチがボタニカル・マガジンの仕事をやめたことでマチルダはその仕事を継ぐことになり
1879年から1881年の間に毎号20点ほどの植物画を描き
1887年までにほとんどすべての図版はマチルダが描くようになりました。
1921年に女性としては2人目となる
イギリスのロンドンにある世界で最も古い博物学の協会である
ロンドン・リンネ協会の会員に選ばれました。
19世紀のインドのボンベイ
イギリスの対インド貿易が自由化されたことで
イギリスから機械製綿織物がインドへ流入したことにより
インドの伝統的な綿織物産業は打撃を受けて廃業となってしまい
さらに近代的な地税制度を導入したことでインドの民衆は困窮してしまいました。
こうした背景もあり1857年に第一次インド独立戦争が起こり
イギリスはこれを徹底的に鎮圧しました。
1858年イギリスはムガル帝国を完全に滅ぼしインドを直接統治下におき
1877年にはイギリス女王がインド皇帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立しました。
イギリスは遠い本国からインドを支配し
ヨーロッパ文明の優越性を固く信じて
イギリスの制度と学問、芸術、技芸などの文化をインドに可能な限り導入して
インドの植民地統治体制を確立したのでした。
そしてインドはイギリスの資本主義市場の中に組み入れられ
イギリス製品の市場原料生産地となりました。
発音がボンベイからムンバイへ
インドの都市名にはイギリスの植民地時代に付けられた名称が数多くありますが
インド政府はボンベイとマドラスを
ムンバイとチェンナイにそれぞれ正式名称を変更しました。
かつてのビルマがミャンマーに
その首都ラングーンがヤンゴンに変わりましたが
時代の流れの中にいる私たちだから
時代の変化と共に私たちも変化していくことは避けては通れないことなのかもしれません。
当時の女性画家
19世紀、世界は大きく流れを変えていた大規模な社会変革で
大西洋を挟んだ両側の大陸に住む女性達の生活にも大きく影響していきました。
産業革命は貴族や僧侶などの上層階級と労働者などの下層階級の間の中間階級を増加させ
女性の選挙権の獲得、教育改革への変革は、女性に自由と解放をもたらしました.
しかし、同時に新たに勢力を増した中間階級の女性には
家庭が中心であり結婚して母親になることこそが幸せである
ということが幸福のバロメーターになり
女性としてのたしなみ、花嫁修業が教育になっていきました。
パリでも、ボストンでも、ロンドン、ニューヨークであっても
ヴィクトリア朝風の女性が流行っていました。
女性の芸術家にとって
女性が家庭というものにアイデンティティを見出すという風潮は
世間からの非常な仕打ちを強いられる要素になっていきます。
当時の社会では女性の活動を否定する男性の嫌がらせが多くありましたが
そんな中で女性たちが考えたのは法律的な許可を得て男装することでした。
それが女性が公共の場で一人で行動する危険を回避する方法であり
この男装という方法で
女性たちはやっと自由に家庭の外へ出て研究することが可能となりました。
写実主義から印象派へ
19世紀後半から印象派の発達とともにアカデミックな
現実をありのまま、そのままに表現する写実的な絵画は否定されていきます。
それに代わって
近代的な都市生活、中産階級の余暇、家族生活、
あるいは劇場やカフェに集う人々などを瞬間的な光だけでなく
それが時間とともに変化していく様子を光と色彩で描く風俗画が好まれていきました。
小さな女の子や少女、母親、婦人などを描いた彼女達の作品は当時革新的で
アメリカでも19世紀後半になると多くの女性の画家は
正式な主題として家庭生活を描くようになっていきます。
ボタニカルアート
ボタニカル(botanical)とは
ボタニカル(botanical)とは「植物学的」という意味です。
なのでボタニカルアートとは「植物学的な絵画」をさします。
4つの約束事
ボタニカルアートには4つの約束事があります。
1 実物大に描く
2 背景を描かない
3 人工的な物(植木鉢、花瓶等)を描かない
4 そして、一番大切な約束事は植物の持つ特性を変えない
ことです。
ボタニカルアート
ボタニカルアートという言葉を最近耳にすることが多くなりましたが
最近になって言われ始めた言葉ではありません。
その起源は古代ギリシアまでさかのぼります。
古代エジプトや中国などで薬草を見分けるために植物の絵が描き始められました。
紀元一世紀にギリシアの軍医ディオスクリデスが著した「薬物誌」は
植物学が誕生する18世紀まで医者の聖典とされていたほどの有名な著書です。
もちろん当時は図はありませんでしたが後の時代になって図版が加えられました。
キリスト教の影響が絶大であった中世ではユリやバラなど
聖書の特定の意味を図像化した植物画や
薬草に関わる伝説などが多数生まれていきます。
「ハリー・ポッター」にも出てきた「マンドレイク」はその一つ。
そのほかにも愛の魔法の「セージ」や惚れ薬の「サンシキスミレ」などがある。
中世の「植物誌」は豪華な装飾写本で多く作られ
キリスト教の色濃いものが多いようです。
ルネサンス期になると
徹底した写実で細部にいたるまで緻密に描かれるようになります。
16世紀の大航海時代を迎えると
見たこともないような珍しい植物を求め奥地にまで入って行きました。
まだ現像などの技術方法のない時代であったので
植物学者と画家がタッグを組み
植物学的にも正しく詳しい絵が続々と本国へと送られていきました。
それらの絵があまりにも緻密で美しく素晴らしいということから
主にイギリスやフランスで19世紀にボタニカルアートが大流行しました。
そうして植物学の発展とともに認知度が上がり植物画の需要が高まり
ヨーロッパの列強であるフランス、イギリス、ローマなどは
挙って世界各地の植物採集に力を注ぎ
品種改良などの技術もどんどん発達していきます。
その後、活版印刷技術の向上や産業革命を経て
ボタニカル・アートは市民の間でも需要が高まり
徐々に植物愛好家が増えていきました。
現代では19世紀までの学術的な植物画ではなくより芸術性を追求する画家や
趣味として描くボタニカル・アートの愛好家も増えていきました。
現在ではホテルやレストランのインテリアの絵として定着し愛好されています。
日本では植物も平面的には描かれていましたが
立体的には描かれるのは明治に入った頃、東京大学の植物画の教室において登場します。
でもその絵はまだ一般的ではなく
絵のジャンルとしてしっかり確立してきたのはほんの二十年ぐらい前からです。
そして最近になって自然志向の流れと共に小さなブームを起こしていますが
まだまだボタニカルアートは一般的には広く知られていません。
日本ボタニカルアート協会が1970年に設立され
その翌年から印刷物でない生の植物画の展覧会「日本ボタニカルアート展」が
東京を中心に毎年開催されています。
忠実に描かれた植物画は
見れば見れるほど誰もが吸い込まれて感嘆の息を呑んでしまいます。
この展覧会によって植物画になれ親しみ
ボタニカルアートという新しい絵画分野が少しずつ広がりを見せているようです。
マチルダから19世紀の女性画家の境遇に思いを馳せて
そこから時代が少しずつ傾き始め写実主義から印象派へ
写実的と植物学が合わさってボタニカルアートへ進み
そして現代の化粧品のパッケージデザインに繋がっていく連鎖は
なんだか不思議で面白いですね。