読みもの
「グーグーだって猫である」
仕事が生き甲斐の人にとって、次の感覚は意外ものではありません。“走り出したらもう止められない”。概して、仕事とはそういうものです。楽しいから?いいえ。そういう時ばかりではありません。時に苦しくても、歯を食いしばりながらやり遂げる覚悟があるのです。自分の頑張りによって笑ってくれる人たちがいるから。
責任感を持って、多くの大人たちが社会を駆け回っています。時々疲れを覚えても、走るのをやめることはできません。張り詰めた空気の中、それはまるで重い荷物を背負っているよう。体がいつの間にか悲鳴をあげて、苦しむこともあるでしょう。そんな時、小さくてあったかいフワフワしたものがそばにいたら、ホッ…と癒されるのではありませんか?ちょっと立ち止まって、ゴロゴロするのもいいかな…という気持ちが湧いてきます。しなやかな体をなびかせて、長いシッポをゆらしながら…あなたの足元にすり寄ってくれる。気まぐれで自由で、とびきりの美しい目をしているその生き物の、そのなめらかな毛並みを、あなたはきっと大好きになるに違いありません。
映画「グーグーだって猫である」は、そんな身近な猫たちが与えてくれる、不思議な癒しの力をほほえましく描いた作品です。漫画家の大島弓子さんが飼い猫たちと過ごした、愛しい日々。その素朴なエッセイ漫画が映画化されました。主人公は大島弓子さんをモデルとした“小島麻子”(こじまあさこ)。小泉今日子さんがほのぼのとした表情で演じています。どこまでも優しい眼差しで猫を見つめる麻子と、のびのび跳ね回る無邪気な猫。思わず気づけば笑ってしまうほど、可愛くて、さりげない愛の風景がそこにあります。
舞台は吉祥寺。緑の美しい井の頭公園や町の風景がどこか懐かしさを感じます。この町でずっと麻子は日常を送り、仕事をしてきました。気づけば天才漫画と呼ばれ、知らず知らずに背負ってしまうストレス。そんな彼女のそばにいていつも癒してくれたのは、初めての飼い猫“サバ”でした。サバはフランス語で“元気?”という意味。サバも麻子が大好きでした。それでも、麻子が忙しく仕事をしている時はちゃんとわきまえています。自分の命がもう少しで終わろうとしている時も、そうでした。
「さようなら」
小さく、消えてしまいそうな最後の一息、サバは麻子を見つめました。締め切りに追われて必死で作業をする麻子に、その声は届きません。ようやく仕事が片付いた徹夜明けに、サバはもう冷たくなっていました…。
愛する家族の最後の瞬間に気づいてあげられないというのはどんなにか、辛いことでしょう。この映画の中ではその悲しみが、痛いほど伝わってきます。麻子はサバを失ったあまりのショックから、しばらく漫画を描けなくなってしまいます。今までずっと走り続けてきたのに、大きな落とし穴が空いていたかのようです。それに気づかずストン、と落ちてしまった…そんな状態でした。麻子を、誰が癒し、助けてくれるでしょうか。その深い穴にそっと顔をのぞかせて、入ってきてくれる“誰か”が必要でした。
出逢いは突然です。麻子は吸い込まれるように入ったペットショップで、何とも愛らしいアメリカンショートヘアの子猫を見つけます。少しうるんだ瞳で、きょとんと麻子を見ています。麻子の悲しみも、仕事のことも、何も知らないその子猫は、ただ麻子の指先にじゃれつき目を細めています。手を伸ばせば、今すぐに自分の所に来てくれる、愛しい存在。思わず麻子の顔もほころび、たちまちその子猫が欲しくなりました。思いつきのように子猫を名付けて、大切に箱に入れてお持ち帰りします。その名も、“グーグー”。
人間はなんて複雑で、時に単純なんでしょう。気持ちが明るくなると、世界も一変するものです。麻子の周りにはパッと花が咲いたみたいに、まるで春が来たような、明るい景色。気まぐれに飛び出す子猫のグーグーを追いかけて、いつの間にか、麻子はまた走り始めていました。グーグーと遊び、グーグーの世話をし、グーグーの写真を撮るうちに、心の冷たい悲しみは少しずつ溶けていきます。麻子は再び漫画を描けるようになり、グーグーを通して新しい恋までもが、舞い込んでくるのでした。
「グーグーだって猫である」は、一生懸命に生きる人間と、そのそばで対等に生きている猫の生命力を感じる作品です。生きることの美しさが、そこにはあふれています。人の心はもろくて危なっかしくて、自分を癒し元気付けてくれる“何か”を必要としていますね。それでも、ちょっとした猫のおかしなしぐさや甘えた鳴き声で、“癒された”と感じるのですから不思議なものです。この映画を見て、猫と同じ歩調で歩いてみると何かが変わるかも…とさえ感じました。猫は気まぐれなので保証はできませんが。きっと“また頑張れる”と思えるきっかけが、そこに隠れているかもしれません。
グーグーだって猫である